レーニン主義の大失敗に学ぶ『LGBTの人権差別禁止条例』がもたらす危機②
家族破壊の法律を次々に作り、女性解放政策を実施
レーニンは家族(制度)を「旧秩序の要塞・伝統文化の砦」とし、以下のような攻撃を行なった。
①従来、法律婚の要件とされていた教会での結婚式を不要とし、役所での登録だけで婚姻の効力が生ずるものとした。
②離婚の要件を緩和し、当事者合意の場合はもちろん、一方の請求だけでも 裁判所はこれを認めることとした。
③犯罪であった近親相姦、重婚、姦通を刑法から削除した。
④堕胎は国立病院で認定された医師の所へ行けば可能となり、医師は希望者 には中絶手術に応じなければならないことになった。
⑤子供たちは、親の権威よりも共産主義のほうが重要であり、親が反動的態 度に出たときは共産主義精神で弾劾せよ、と教えられた。
⑥最後に、1926年には、「非登録婚」も「登録婚」と法的に変わらない とする新法が制定された。
この時の女性解放政策の中心人物がコロンタイだ。
コロンタイの一杯の水理論「共産主義社会では性欲を満たすのは一杯の水を飲んで喉の渇きを潤すのと同じ」(※『男性VS女性』岩波ジュニア新書(1990年)より。)は有名だが、こうした反家族政策の狙いどおり、家族の結びつきは、1930年頃には革命以前より著しく弱まった。
しかし、彼らが予想もしなかった有害現象が同時に進行していた。
家族破壊政策によって何が起きたか
1934年頃になると、それが社会の安定と国家の防衛を脅かすものと認識され始めた。すなわち、
①堕胎と離婚の濫用(1934年の離婚率は、37%)の結果、出生率が急減した。それは共産主義国家にとって労働力と兵力の確保を脅かすものとなった。
②家族、親子関係が弱まった結果、少年非行が急増した。一九三五年には、ソ連の新聞は愚連隊の増加に関する報道や非難で埋まった。彼らは勤労者の住居に侵入し、掠奪し、破壊し、抵抗者は殺戮した。汽車のなかで猥襲な歌を歌い続け、終わるまで乗客を降ろさなかった。学校は授業をさぼった生徒たちに包囲され、先生は殴られ、女性たちは襲われた。
③「性の自由化と女性の解放」という壮大なスローガンは、強者と乱暴者を助け、弱者と内気な者を痛めつけることになった。何百万の少女たちの生活がドン・ファン(プレイボーイ、女たらしの代名詞)に破壊され、何百万の子どもたちが、両親の揃った家庭を知らないことになった。
続く…