レーニン主義の大失敗に学ぶ『LGBTの人権差別禁止条例』がもたらす危機③
スターリンのゆりもどし政策
1934年には、(ソ連)国家はこのような混乱の対策に精力を消耗することに耐えられなくなった。それは戦争に直面している国の、国力を破壊するものであった。
これを是正するためには、「社会の柱(Pillar of society) 」である家族を再強化する以外に方法はなかった。かくして(スターリン)政府は次のような措置をとった
①「結婚」の意義が再評価された。それは生涯の結合であって人生の「最も厳粛な行事」であると教えられるようになった。家庭の強化は共産主義の基本的モラルの一つとされた。「離婚は性的快楽のための権利ではない」として、1935年には、結婚した翌日に離婚した男が強姦罪で起訴された。
②離婚の制限を強化した。1935年には離婚歴が戸籍に登録され、女性が男の30人目の妻となるようなケースを防止できるようにした。離婚費用も3ルーブルだったのが一回目50ルーブル、二回目100ルーブル、三回目150ルーブルに引き上げられた。この結果、たとえばウクライナの離婚件数は、1936年には前年の三分の一に減少した。
1944年には離婚はすべて裁判所の決定を要するとする法律が制定された。十分な理由の立証が必要なうえに、離婚費用が2000ルーブルに引き上げられたから、ソ連は世界で最も離婚の難しい国になった。
③この法律は、さらに1926年に導入された非登録婚の制度を廃止した。登録婚だけが合法となり、嫡出子と非嫡出子の「ブルジョア的差別」も復活した。婚外子とその母は扶助料も受けられなくなった。
④堕胎の自由もなくなった。1935年から反中絶キャンペーンが始まり、それがいかに母体に悪影響を及ぼすかを医学者たちがPRした。1936年には1920年の法律が改正され、母体の生命と健康に危険のある場合及び重大な遺伝上の問題がある場合を除いて人工中絶が禁止された。出産が奨励され、六人以上の多子家庭には特別手当が支給された。
⑤親に対する反抗の奨励も修正された。親の権威が強調され、1935年には、「親に対する尊敬と孝行は青年共産主義者同盟(コムソモール)の道徳の核心をなすものである」と新聞に報道された。
スターリンも1935年10月、自らチフリスに住む老母を訪ね、母親に対する愛情と尊敬を示し、模範例として称揚された。
このように、レーニン革命時の「家族制度崩壊政策による大惨事の歴史」を学んだ結果が、現在のロシアに大いに教訓として刻まれているとみれます。
プーチン大統領が決断した「ソチオリンピックからの警告」として、東京オリンピックを性解放、家族制度崩壊に政治利用する勢力から、この国を守らなければならないのではないでしょうか。